先日、奈良県で、同居の母親が衰弱していることを知りながら放置して死なせた(さらに、その遺体を放置した)として、ある男性が逮捕されました。
男性はさきに死体遺棄の被疑事実で逮捕されていましたが、今回さらに、殺人の被疑事実で逮捕されたようです。
殺人罪は、法定刑が「死刑又は無期若しくは5年以上の懲役」と規定されている非常に重い罪です。人の生命に危害を加えるのですから、このように重い罪が規定されていることにはご納得いただけるかと思います。
ただ、今回逮捕された男性(Aさんとします。)は、「殺人をした覚えはありません。」と供述しているとのことです。この記事をご覧の方の中にも、Aさんはナイフや銃といった凶器を使ったわけではなく、ただ母を放っておいたということなのに、それで人を「殺した」ことにあたるのか、と驚かれた方はおられるでしょうか。
殺人罪は、不作為によって犯し得る犯罪の一つとして有名です(大学の法学部の授業でも、この「不作為犯」という項目を習うときは必ず取り上げられる犯罪の一つです。)。
作為とは「動作をすること」、不作為とは「動作をしないこと」を意味します。殺人罪は、何もしないことによって成立することがあるのです。
ただ、たとえば、九州で死にそうになっている見知らぬ人に対して何も助けようとしなかった四国の人が殺人罪に問われたりすれば、それはおかしいでしょう。
不作為によって殺人罪が成立するというためには、殺意があることに加えて、以下の3要件がみたされなければなりません。すなわち、①作為義務の発生、②作為の可能性及び容易性、③作為義務違反という3要件です。
①作為義務の発生
これは、殺人罪について簡単にいうと、「その人の生命が危険に陥っていることについて責任があり、社会的にみてその人の生命について救命努力をしないといけないだろうと考えられる関係がある人」です。たとえば、人を車ではねて道路から動けない状態にさせてしまったのであれば、はねてしまった運転者、子どもやからだの不自由な人などの自力で生活できない人を引き取っているのであれば、引き取った人、そういう人であることが必要です。
②作為の可能性及び容易性
これは、「救命のための努力が、大きな苦労もなく可能であったこと」です。たとえば大けがをして死にそうな人が目の前に居るときには、携帯電話で救急車等の助けを呼ぶなど、人が目の前で亡くなりそうというときには、その状況に応じて出来ることがある場合があります。
もちろん、何もできない場合もありますし、あまり無理をするのは本人にとっても非常な困難や危険を伴うこともあり得ますから、何もできない場合、及び、できることはあるけれども容易でないという場合には、これは否定されます。
③作為義務違反
さて、①のように責任のある人が、②のようにいくつか簡単にできることがあったのに、何もせずにその場を放置したとき、これが作為義務に違反するということです。
この3要件がみたされることに加え、「殺意」、すなわち、「放っておいて死なせよう」あるいは「放っておくことによってその人が死ぬかもしれないけれどもそれでもいい」という心情であったことが客観的にうかがわれるとき、その人は、何もしないことによって殺人罪を犯したことになるのです。
今回の奈良の件は、詳しいことはわかりませんが、この類型にあたると判断されたようです。
Aさんは、ニュースでは、自力歩行や飲食ができない状態の母親と同居していたと報道されています。
一般的に、家族以外の他人が自由に家庭に立ち入ることはありませんから、特にAさんが亡くなった母親と2人きりで同居していたのであれば、母親を助けられるのはAさんしかいないわけです。すると、親子という2人の関係から見ても、Aさんには作為義務(①)が肯定されるでしょう。②も、Aさんは生きている以上何らかの食事をしていたのでしょうから、同居の母親にも食事を与えることが非常な困難を伴うということはなさそうです。
しかし、たとえば、Aさんがケアマネージャー等、他にも母親の日常生活に関与する他人を雇っていたとか、あるいはAさん自身食べるのに精いっぱいで、とてももう一人分の食事を用意できない状態だったというような別の事情があれば、①や②は否定される方向に傾くでしょう。
事件の責任は、事実を詳細に検討するまでわからないものです。
ただ、今回人が一人亡くなられたことは確かです。心よりご冥福をお祈りいたします。