1 人から尊敬される前に
それなりに向上心や自尊心がある人であれば、「人から尊敬されたい」という願望はあると思います。
私にも人から尊敬されたいという願望は一応あります。弁護士を目指したのも、人から尊敬される人間になりたいという願望がベースになっているし、弁護士法人ALGを一流の法律事務所に育て上げたいという願望も、人から尊敬される人物になりたいという願望があるからです。
心理学者マズローの言葉を換えれば、自己実現欲求なんだと思います。
私は法律学や経済学の本をたくさん読みましたが、論語、韓非子、言志四録などの古典や哲学書もけっこう読みました。
法律学や経済学という学問は、世渡りに役立つ実用的知識の集大成ですが、論語なんかはそういう意味ではあまり役に立ちません。何かに役立つ学問や知識しか興味ない人は、こういう本は読みませんよね。人格形成に興味がある人しか読まないと思います。
さて、「人から尊敬されるような人物になりたい」という願望を持っていろいろ本を読んでいると、一つの真理に気づきました。
人から尊敬される人物になるには、その通過点として尊敬できる人物がいなければならないという真理です。
例えば、上杉鷹山という人はすごいですよ。徳川時代に仙台藩の財政を立て直した藩主ですが、財政再建の手腕だけではなく、人格も立派です。この人の正室は知恵おくれの女性でしたが、この女性を生涯大事にしました。当時の封建社会ですから、政略結婚ですよ。自分で選んだ結婚相手ではないのに、「この女性に罪はない」とういうことで、誠意を貫きました。根が遊び人の私にはなかなかできません(笑)。私としては、身分の上下を問わず、好みのタイプの女性であれば片っ端に手を出していた徳川家康のほうが親近感が沸きますけどね(笑)。
二宮尊徳もなかなかですよ。苦学の代名詞のような人物ですが、筋を通す人物です。彼は養父に養われるんですが、畑仕事が終わって蝋燭の明かりで勉強をしていると、養父から「明かりがもったいない。」としかられるんです。養父からすると、労働力として養っているわけですから、勉強なんかしてもらいたくないわけです。でも、養父の言い分は筋が通っているということで、この勉強を中止するんです。また、小田原藩から召抱えたいという要請が来ても、何度も断っているんです。理由は母親の面倒をみないといけないから、ということだそうです。せっかくの出世のチャンスなのにです。これもなかなかできません。
2 尊敬できる人物はいますか?
尊敬される人物になりたいと思っていると、自然とその過程の中で、尊敬できる人物ができてしまいます。
そう言えば、ストア学派のセネカも、「同じ麓にたたずんでいても、山の頂上を見上げている人は、そうでない人よりも立派な人物である」と言っています。人を尊敬できるということは、麓から山の頂上を見上げているようなものだと思います。
人から尊敬されていなくても、とりあえず人を尊敬することから始めることなら私にもできます。
でも、けっこう、これもできない人が世の中には多いと思います。山の頂上に興味がない人ってたくさんいますよ。
「そんなことはない。私だって両親を尊敬しているもん!」と反論したい人はいるでしょう。
でも、そんなことを言われると、私は、この人の親がすごい人か、さもなくばこの人の目標が著しく低いかのいずれかだと思ってしまいます。偉大な人物を親に持つ人なんてそうそういませんから、たぶん後者であろうという推定が働いてしまいます。
「なぜ両親を尊敬しているのですか」と質問すると、「私をいままで育ててくれたから…」と答える人が多いと思います。でも、それって、尊敬というよりは、「感謝」ではありませんか。私だって、両親に感謝はしていますよ。
でも、こんなことを言うと親不孝だとしかられるかもしれませんが、私にとって、両親は追いつき追い越さなければならない目標ですらありません。実際、両親よりも偉大な人物は歴史上たくさんいますから(笑)。
少々話が脱線しましたが、人から尊敬される前に、人を尊敬できるようになることが肝要だと思います。まずは、人を尊敬することから始めてみませんか。