今回は、建物の明渡請求が認められなかった裁判例について、その事案と判示内容を概観し、分析してみたいと思います。
【東京地方裁判所平成20年3月4日判決】
本件の事案の概要は、おおむね以下のようです。
Aは、賃借人(以下「被告」といいます)に対して、A所有の東京都板橋区ほか所在の合計8筆の土地(以下「本件土地」という)及びその上に新築された建物(以下「本件店舗」という)を、賃借人(以下「被告」といいます)に対して賃貸していました。
店舗部分において、被告はスーパーマーケットを経営しています。
本件土地及び店舗の賃貸借契約の詳細は以下の通りです。
賃料 月額547万6550円(消費税別)を毎月末日までに翌月分を支払う。ただし、3年ごとに公租公課の負担の増大、経済状態の変更等を考慮して相互に協議の上改定する。
期間 平成2年7月14日から同22年7月13日まで
敷金 4240万2000万円
保証金 賃借人は賃貸人に対し、保証金として3億8161万8000円を前記契約日に預託する。保証金は無利息とし、10年間据え置き、本件契約の日から11年目を経過する日の属する月の末日を第1回とし、以後10年間に均等額を割賦返済する(以下「本件保証金」という)。
Aは、平成5年10月18日死亡し、相続により同人の妻が10分の5、同人らの子でCが10分の3、同じくDが10分の2の割合で本件建物及び本件土地からの持ち分を取得し、また、BCDが本件賃貸借契約にかかる賃貸人の地位をAから承継し、また、同人らが相続により本件保証金返還債務を承継した。
訴外Aは、株式会社E銀行との間で、平成2年7月31日、本件土地及び本件建物極度額24億9000万円及び15億1000万円とする根抵当権設定契約を締結し、これに基づいて、14億0400万円を借り入れた。その後、前記24億9000万円を極度額とする根抵当権設定は、平成7年8月7日に解除され、同日新たに、BCDらと同銀行との間で、本件土地及び本件建物に極度額24億円、債務者をCとする根抵当権設定契約が締結され、同年8月14日その旨登記がされ、Cは、平成13年5月31日に同銀行から2億5570万円及び16億9800万円を借り入れた。(以上の各貸付を「本件貸付」という)
原告(債権管理回収業に関する特別措置法に基づき設立された債権の売買・回収等を目的とする会社)は、会社分割により本件各貸付債権及び前記根抵当権を取得した株式会社Fから、B、C、D(以下これらをまとめて「補助参加人」ということもある)とともに、本件貸付債権及び根抵当権を譲り受けた。
原告とB、C、Dは、平成16年10月29日、本件貸付にかかる債権のうち、17億9449万9740円の弁済に代え、B、C、Dが原告に対し本件建物及び本件土地の所有権を移転する旨の代物弁済契約を締結し(以下「本件代物弁済契約」という)、同時に、本件賃貸借契約の賃貸人の地位を同月30日をもって補助参加人から原告に移転する旨合意した。
被告は、原告に対し、原告がB、C、Dらから本件保証金返還債務を承継したとして、平成18年3月23日到達の書面により、すでに返還期限の到来した本件保証金1億9080万9000円と本件賃貸借契約にかかる平成18年4月から同年12月までの賃料債権5179万6854円とを対当額で相殺する旨意思表示した。
これに対して、原告は上記相殺の意思表示後、被告が同年4月から同年11月までの賃料3830万1375円を支払わず、被告の主張によればその後62ヶ月以上の賃料が不払いとなることになるので、すでに原告と被告との間の信頼関係は破壊されているとして本訴を提起するとともに、本訴訴状において、被告に対し本件賃貸借契約を解除する旨意思表示した。
本件における争点は、①保証金返還債務について、B、C、Dから原告に対して、免責的債務引受(この場合でいえば、もともとの債務者であったB、C、Dが債務者でなくなり、原告が代わりに保証金返還債務を負うこと)がなされたか否か、②本訴が不当提訴として不法行為となるか、③原告が本訴の訴状でなした賃貸借契約の解除が認められるか、④被告から原告に対する、賃料債権と相殺後の保証金返還請求は認められるか(反訴請求)の4点でした。
裁判所は、おおむね以下のとおり判断しました。
① については、結論として免責的債務引受の成立を認めました。その理由としては、代物弁済契約の締結に関与した弁護士が、本件の保証金返還債務を承継しない旨の認識でいたなどと主張した原告側の主張は契約締結過程の事情に照らして認められず、代物弁済契約に書いてある通りの免責的債務引受の合意がなされたと認定しました。
② については、結論として、本件が不当提訴であるとの原告の主張を認めませんでした。理由は、本来民事訴訟を提起することは私人に認められた権利であるから、訴え提起自体が不法行為を構成するのは、「実体的理由がないことを知りながら」「もっぱら他人に損害を加えて自己に不当な利得を得ようとするなど」「紛争解決目的以外の不当な目的のためにあえて訴えを提起した場合」や、「訴え提起当時の権利の存否についてわずかな調査をしさえすればその理由がないことを容易に知りえたにもかかわらずそれを怠り、軽率にも訴え提起という手段に出たなど、自己に権利がないことを知らなかったことにつき原告に重大な不注意があると認められる場合などに限られる」として、本件では上記のような事情はいずれも認められないからということです。
③ 原告が行った解除については、以下のように判示しました。
原告は、前記①のとおり、被告に対して、免責的債務引受をして保証金返還債務を負っているものと認められる。そして、本件の訴状により原告が賃貸借契約の解除を行う以前の、平成18年3月28日、被告は、原告に対し、本件保証金返還請求権と本件賃貸借契約にかかる賃料債権(平成18年4月から12月分)を対当額で相殺する旨の意思表示をしている(この点は当事者に争いがない)。
確かに、上記の相殺の意思表示時点では、未だ各賃料債権の支払期限は到来していなかったが、被告は本件訴訟中においても上記の相殺の意思表示をしているから、本訴訟における相殺の主張により改めて相殺の意思表示をしたと認め(中略)る。
したがって、原告が不払いがあったと主張する前記賃料にかかる賃料債権は、前記相殺により消滅したと認められるから、原告の賃料の不払い及び信頼関係の破壊を理由とする前記解除の意思表示は無効である。
④ については、③が認められることの帰結から、償還期限の到来した本件保証金返還債務の返還義務が原告にあることを認め、被告の請求を認容しました。
本件は、スーパーマーケットといういわゆる商業施設について明渡しが問題となった事案であり、このような商業施によくある例ですが、建築の際に、賃借人から賃貸人に対して多額の保証金が支払われているというものでした。
もとの土地賃貸人から本件土地建物を代物弁済契約で譲り受けた原告としては、代物弁済契約に「法的性質が敷金以外のものは、名目が保証金であれ敷金であれ、原告が承継しないことを規定した条項」が入れてあることを根拠に、「原告は保証債務を承継しない」と主張しました。しかし、裁判所は、「上記条項は、・・・原告が本件補償金及び敷金の返還債務を承継し、これに伴い補助参加人ら(土地賃貸人の相続人であるB,C,D)が同債務を免責されるとの合意が本件代物弁済契約締結の前提としてなされていたのであるから、同条項は本件保証金返還債務については適用がないと解釈するのが相当である」と判示して、おそらく原告が苦心して考え出したであろう契約条項の効力は裁判上否定されてしまいました。
本件は、純粋な形の賃貸人と賃借人との間の紛争というよりは、債権回収会社といういわば「プロの債権回収人」が入った後の賃借人(テナント)との紛争事例ですので、その意味でやや特殊性があるとは言えます。(賃借人側としては、以前からつきあいのあった賃貸人から、債権回収人へと賃貸人の地位が譲渡されたことをみて、今までの立退請求があるのかもしれない、と見越して、賃料債務と保証金返還請求権の相殺という手法を思い付いたのかもしれません。)
未発生の将来の賃料債権と「保証金返還請求権」が相殺できる、という本判決の結論は、賃貸人の地位を譲り受ける原告のような立場の方々にとっては、やや得心のいかない部分もあるかもしれません。(確かに、本件の原告側が保証金返還請求権の承継を否定したかったことは、契約の経緯をみても明らかのようですし、なにゆえ契約書に相当程度明確に定めたにもかかわらず、「本件ではその効力がない」と条項の効力が否定されてしまうのかについては、今少し説明があってもよいようには思われます)
判決の意図をもう少し敷衍すると、保証金返還債務の承継がなされるという前提でなければ、本件のB、C、Dは原告に対して代物弁済自体しなかったであろう、という判断がなされたということでしょうか。つまり、契約書の形式的な文言よりも、取引がなされた動機のほうに注目し、保証金返還請求権の承継が本件代物弁済契約の大きな動機であるから、これを承継しないとみることはできない、と判断したのが本判決であると思われます。
原告のような立場に立たれる事業者の方々の自衛策としては、土地建物を取得される際には、敷金並びに保証金返還の義務の存否を確認し、原則としてそれらの債務を自らが承継するとされても大きな損とならない程度の条件で物件を入手するようにすることかと思われます。
弁護士 吉村亮子