1 カリスマに憧れるリーダー
政治家であれ、会社経営者であれ、およそリーダーと呼ばれる地位に就いている人たちは、カリスマに憧れる傾向があるのではないかと感じています。つまり、自分もカリスマ的リーダーだと言われたいという願望です。
このことは、組織のフォロワーが、どのようなリーダーをカリスマ的と呼ぶかを考えてみれば分かります。
大体の場合、組織が自分たちのリーダーをカリスマとして意識するのは、その組織が他者には真似できないような強烈な個性・魅力・卓越した能力によって組織が牽引されているときです。ほかの人では代役が務まらないような、属人的な才能です。
だから、リーダーになるような人は、みんなカリスマと呼ばれることに憧れるんですね。だって、そのリーダー自身が凄い!と称賛されているわけですから。
2 カリスマの胡散臭さ
しかし、掘り下げて考えてみると、周囲の人がその人物にカリスマ性があると感じるのはどのような時なのか。それを考えると、カリスマという概念の胡散臭さを感じてしまいます。
カリスマの辞書的な意味は、「天賦の才能」ですから、いわば神から特別に授かった才能ということになります。したがって、そもそも凡人が真似しようと思っても無駄!
したがって、そのリーダーが真にカリスマであるならば、カリスマ性と偉大な功績の因果関係は次のようになるはずです。
カリスマ性 → 偉大な功績
しかし、世間のカリスマに対する評価は、むしろ逆です。
偉大な功績 → カリスマ性
そうすると、カリスマ性とは結果論だということです。これって、胡散臭いですよね。昨日まで普通の人だったのに、結果を出すと突然カリスマと呼ばれるんです。
3 カリスマは組織の病理現象
私は、カリスマなどというものを胡散臭いと思っています。たちの悪いリーダーは、カリスマ的リーダーと呼ばれたいために、それをわざわざ演出することさえあります。組織統治のテクニックのひとつなのでしょう。
しかし、このようなカリスマは、長期的に見ると組織にとって大変有害なものだと思います。
第1に、リーダーがカリスマとして認識されると、組織はそのリーダーに極度に依存してしまいます。端的に言えば、そのカリスマ的リーダーがいなくなったら、組織はそれでおしまい。カリスマの代わりを果たせる人なんて組織内にいませんからね(もしいたら、カリスマ的リーダーではなかったんだと思います)。
第2に、組織の中で人が育たなくなります。そもそも、カリスマの本領は、凡庸な人間の集団を率い強力な力を発揮するところにあるはずです。組織の構成員が有能な人間ばかりだったら、リーダーはカリスマ的だと呼ばれないと思いますから。あの烏合の衆をひとつの巨大な力にまとめあげるからこそ、カリスマはすごいんですよ。少なくとも、カリスマ的リーダーに近い有能な人物が組織内にいてはいけないんです。それはカリスマに対する冒涜なんですね。したがって、人材が育ちません。
第3に、リーダーが間違った方向に行った時、誰もこれを正すことができません。カリスマは神から特別な才能を授かっているんです。凡人が口を出す余地などありません。カリスマは天才で、凡人は暗愚です。したがって、カリスマは間違わない、常に正しいんですよ。これって、かなり危ない思想ですよね。
4 リーダーは、組織の機能に過ぎない
私は、リーダーとは組織の中の機能に過ぎないと位置づけています。組織の中には様々な役割・任務を負っている人たちで構成されています。
組織は、その目的を達成するために、その構成員の役割がそれぞれに割り振られています。だから、組織は個人よりも強い力を発揮するんです。
そして、リーダーは、リーダーとして組織のためにやるべきことが決まっていて、それを粛々と遂行していく、それだけだと思うんです。
努々、カリスマ的リーダーになることなど考えてはならないと思います。