2014年3月27日、静岡地裁(村山浩昭裁判長)は、袴田事件に関し、再審請求を認める決定をくだしました。

私たち弁護士法人ALG&Associatesも、「無実の死刑囚・袴田巌さんを救う会」の会員になっておりましたので、とても嬉しいです。というか、私は無罪を信じていたというよりは、”確信”していましたから。

袴田事件とは、1966年に静岡県で起きた一家4人殺害・放火事件で、元プロボクサーの袴田巌さんという人が死刑判決を受けた事件です。

袴田さんは、ずっと無罪を主張し続けており、再審請求がされていました。 その努力が実り、今月27日、ついに再審開始決定がなされ、釈放されることになったそうです。

裁判所の再審開始決定の理由は、「捜査機関による証拠の捏造の疑い」があるからでした。

1968年9月に死刑判決を出した静岡地裁の判決でも、1通の自白調書以外は、全て自白調書が「任意性に疑いあり」で証拠排除されていたくらいです。
自白の任意性に疑いがあるとして証拠排除されることなんて、そうそうありません。
それ自体刑事裁判の常識に照らせば異常なわけで、それなのに有罪判決(しかも死刑判決)をくだした1968年当時の裁判官もめちゃめちゃだと思います。

逆に、1通だけ自白調書が「任意性の疑いなし」として証拠採用されたのも、任意性に疑いがなかったからではなくて、これがないと有罪判決が書けないからだと思います。

刑事裁判で、自白は、「証拠の王」と呼ばれ、最も重要視される証拠なんです。
自白を除けば、袴田事件では、袴田さんと犯人を結びつける(犯人性)の証拠が間接証拠しかないので、有罪判決を出すのは難しかったのだろうと推察されます。

ここまでくると、なぜそこまでして刑事裁判官は、有罪判決(しかも死刑判決)を書くことにこだわるのか、が問題となります。

私自身、司法修習生時代、刑事裁判修習で、「有罪判決を書く練習」をさせられた記憶が明確に残っています。
有力な証拠がなくても、頼りない間接証拠を積み上げて、上手に有罪であることを理屈で説明できる能力が、刑事裁判の裁判官には求められるわけです。
私は、このような刑事裁判修習の指導方針に反感を覚え、しいて”無罪判決”を起案したことがありますが、教官から「分析が甘い」とコメントされたのを覚えています。

このような刑事裁判官教育が司法修習生の時から行われているわけですから、この問題は根が深いと思います。 「裁判官も人間なのだから過ちを犯す」という一般論で説明出来る範囲を明らかに超えています。

では、なぜそこまでして、裁判官は有罪判決を書かねばならないのか!という素朴な疑問を持つ人も多いのではないでしょうか?

実は、裁判官は、よほどのことがない限り、有罪判決を書く必要があるんです。

それはなぜかというと、有罪判決は”無難な判決”ですが、無罪判決は”過激な判決”だからなんです。
凶悪な事件が発生し、一人の被告人に有罪判決がくだされれば、これでこの事件は一応解決、なんです。
しかし、無罪判決が出るとどうなるのか。

第1に、無実の人間を逮捕・勾留し、裁判にまでかけてしまったという捜査機関の誤り。

第2に、真犯人が捕まっておらず、事件がいまだ解決していないことによる社会不安。

第3に、無実の人間を刑事裁判にかけ、かつ真犯人を取り逃した捜査機関(国家)に対する不信。

つまり、無罪判決って、社会を大きく動揺させるんですね。 したがって、有罪判決は、裁判官にとって、日常のルーティン業務ですが、無罪判決は社会を驚かせる過激な判決ということになるんです。

これじゃ、えん罪をなくすどころか、増えますよね。

今回袴田さんは、釈放されることになりましたが、これは異例なことです。 再審開始決定が出ただけで、まだ無罪判決がでたわけではありませんから。

ところが、今回の静岡地裁の裁判長は、「拘置の続行は、耐え難いほど正義に反する」として、刑の執行停止も決定したのです。

袴田さんが逮捕されてから今日まで、47年間ですよ!47年間も身柄拘束されていたんです。
これから国家賠償問題も起こると思います。賠償すればよいという問題でもありませんが…。

いずれにしても、今後このような事件は必ず続きます。
”有罪判決を書くのが裁判官の使命”という刑事裁判の病理にメスを入れない限り。

法曹関係者も含め、国民全体で考えていかなければならない問題だと思います。