デカルトの著書に「方法序説」というのがあります。

 彼は、哲学者であると同時に数学者でもあったのですが、合理主義者である彼は、合理的に説明できない事柄は全て疑ってかかるという態度をとりました。そして、自分自身の存在も疑ったわけです。

 「我思う、故に我あり」というデカルトの言葉は、その時の「自己の存在証明」です。

 自己の存在を疑っていること、これが存在の根拠になると考えたわけです。

 こうしてデカルトは、無事、自己の存在に対する疑いも晴れ、安心したわけですね(笑)。

 しかし、なぜ「自己の存在」が結果で、「思うこと」がその原因なのでしょうか?

 例えば、「我思う、故に我あり」を逆転させることは不合理でしょうか。

 「我あり、故に我思う」という具合に…。

 こう考えると、自己の存在にかかわる哲学上の問題は、永遠に循環論法から抜け出せない気がします。

 ボクは、デカルトが間違っていると論じているわけではありません。

 デカルトは証明に失敗していると論じているんです。

 唯心論と唯物論の、永遠に終わらない立証抜きの水掛け論も、ここから端を発していると思います。

 ところで、カミュであれば、「自己が存在するか否かなんて、そんなことどうでもいいじゃん!」となるんでしょう。

 カミュに言わせれば、哲学上最も重要な問題は人生の意義にかかわることしかないと言い切っていますから…。

 ボクもカミュに賛成です。