人間は、自分が論理的に説明できないこと、または自分の力では解決できないことに遭遇すると、超自然的な力(宗教、神の存在など)を信じることにより、これに対処しようとすることがままあるようです。
さらに、日本においては、たとえばイスラム教圏などと異なり、伝統的な宗教が生活の細かい点まで規律している状況になく、長年の歴史を有する宗教(仏教、キリスト教、イスラム教など)が、一般の人々の心のよりどころとして広く根付いているとはいいにくい状況です(もちろん、これらの宗教の熱心な信者の方も一部にはいらっしゃるでしょうが、数の上でいうと少数派です。特に若年層においては、伝統的な宗教を日常的に信仰し、これにより心の支えを得ている人はさらに少数派となりましょう)。また、昨今の社会情勢をみても、雇用不安等が蔓延し、「頼れるものがみつからない」という不安感を抱く人々がかなり多いようです。
このような昨今の趨勢を見越してか、「自分で宗教を起こして教祖になり、それによって成功を収めよう」という趣旨の出版物が見受けられるようになりました。(上述したとおり、伝統的な宗教の力が他国と比べて弱い日本においては、新興宗教が育ちやすい土壌があるといえ、現実に、みずからが教祖となっていわゆる新興宗教を興し結構な成功を収めていると思われる「教祖」の方もいらっしゃるようです)
今回のブログでは、仮に自らが「教祖」となって宗教を起こしたい場合、どのような問題点があるのか、概観したいと思います。
どのような教義の宗教を創設しようと、教祖本人限りで「創設」するだけにとどまるだけなら、日本には「思想信条の自由」が憲法上認められておりますから、法的に問題は生じません(内容によっては、倫理的に問題がある場合があるかもしれませんが)。しかし、その「教義」をもとに「信者」を集めて宗教活動を行うということになりますと、教祖と他の「信者」と関係及び、信者でない他人・一般社会との間で問題が生じないようにする必要があります。
仮に「教祖」があらたに起こした「宗教」が、礼拝そのほか宗教的儀式等を行うため不動産を保有したいということになれば、その「宗教団体」は、宗教法人法により必要な認証をうければ「宗教法人」として、契約等の主体になり、または法人名義で財産を有する主体となることを認められます。また、この宗教法人には、免税などの特典が与えられていることも、比較的広く知られていることと思います。
「教祖」と「信者」とは、後者が前者を絶対的に信仰するというのが、宗教の典型的なパターンですので、「教祖」がそのカリスマ性などをもとに「信者」を納得させている限り、大きな問題はないとも思えます。しかし、「宗教的儀式」などの理由があったとしても、刑法犯にあたるような犯罪(殺人、強盗強姦、無差別テロ行為など)を実行した場合には、通常の場合、教祖は首謀者として厳罰に処されることになりますので、信者がこのような行為に走ることのないよう、教祖となる方は十分注意してください(これらの犯罪行為を教唆・先導するようなことはもちろんあってはならず、そうした教唆行為等があったと認められた場合は、まず極刑は免れないといっても過言ではありません)。
仮に教祖・信者あるいは信者同士などの、同一信仰を有する者同士の間であっても、重大な刑法犯罪については、司法の場で裁かれることとなっており、「宗教行為だから」という理由により犯罪行為についての免責を得ることは認められていません。
私の個人的な見解としては、人々の心をとらえる方法として「宗教」を選ぶのは、「何か絶対的なものにすがりたい」との人々の心の弱さを利用し、教祖と信者の間に絶対的服従関係を築くことでなんらかの不正な行為を正当化するという動機があるように思えるので、あまりお勧めしたくはないところです。
どうしても教祖になりたい、という方については、信者の方々を自らの私心のために利用するだけに終わらないよう、信者の方々に心の平安をもたらす「良い教祖」になっていただけますよう、お願い申し上げます。