1 自分の可能性を信じろ!

 昨日、山梨県内の都留文化大学において、日本青年会議所関東地区の山梨ブロック協議会主催の次世代リーダー研修で講演をしてきました。
 テーマは、「自分の可能性を信じろ!」です(笑)。なんだか精神論みたいなテーマですが、私の中では理路整然とした体験談でした。1時間30分の講演でしたが、質疑応答も盛り上がりお陰さまで大変盛り上がる講演になりました。青年会議所の会員の方たちがオーディエンスだったので、そもそも意識が高かったというのも、充実した講演になった理由の一つだと思います。ありがとうございました。

 さて、せっかくなので、その講演でお話ししたエッセンスを簡単に紹介したいと思います。

 そもそも、中学時代、偏差値が38、内申書が19だった私が、如何にして司法試験に合格し、弁護士になれたのか。現在、法律事務所を経営しているという意味で、組織のリーダー的役割を果たしていますが、私が考えるリーダー像とは何か、という内容です。

 私の経歴を簡単に紹介すると、

 中学時代偏差値38→高校中退→定時制高校編入学→大学進学→司法試験合格→弁護士

となります。
 要するに、一言で表現すれば、「落ちこぼれ」だったわけです。

 私は、偏差値38の落ちこぼれから突然弁護士になったわけではありません。中学時代に、担任の先生から「おまえは高校に進学できない」と言われました。15歳という年齢で社会人になるなんて冗談じゃないと思った私は、必死で勉強し、高校進学を果たしました。有名進学校に合格できたわけではありませんが、「どこの高校にも入れない」と教師から太鼓判を押された私が高校に入れたことは、私にとって「小さな自信」になりました。

 その後、せっかく入った高校も結局また落ちこぼれ、高校2年の時に退学してしまいます。そして、昼間仕事をしながら定時制高校に進学したのですが、仕事がつまらない。昼間の高校からドロップ・アウトし、また、自分の興味が持てる、やりがいのある仕事をしているわけじゃなかった。
 こうして、17歳という年齢で社会に出たわけですが、当時の仕事に生きがいが持てませんでした。
 そこで、私は大学進学を決意しました。

 高校をドロップ・アウトした私がなぜ大学進学を決意できたのか、言いかえれば、高校で落ちこぼれた私が、なぜ大学に入れると信じることができたのか。
 それは、高校入試の時の「小さな成功体験」でした。
 担任の先生から、「おまえの学力では、どこにも高校に入れない」と太鼓判を押されたのに、頑張ったら入れた。だから、また今後も入れるのではないかと思えたのです。
 私の自信には根拠がありました。だから、定時制高校の友人から笑われても意思は揺らぎませんでした。突然勉強を始めた私を見た定時制高校の友人たちは、「あいつ、大学目指してるんだって?とうとう頭がおかしくなった…」と私を嘲笑いました。でも、私の小さな成功体験は、そんな友人たちの嘲笑にくじけませんでした。

 そして、約1年後、必ずしも名門大学とは言えないかもしれませんが、私は大学進学を実現することができました。小さな成功体験は、さらにひと回り大きな自信に成長しました。
 このような小さな成功体験の積み重ねで、最終的には弁護士を目指すようになったわけです。

 もっとも、大学に進学できただけで、司法試験にも合格できるというのは論理の飛躍です。おまけに、私は法学部出身者ではありませんでした。大学では語学専攻だったので、法律は全くの畑違い…。加えて、当時の司法試験は合格率3%という狭き門でした。そこで、私は「根拠」を求めました。私でも司法試験に合格できる、弁護士になれるという根拠です。根拠が見つからないと、本気でやる気がでなかったんです。
 そこで、私はどのようにして「根拠」を見つけたか。

2 成功=適性×努力

 どんな目標でも努力すれば何でも実現できると考えるほど私は楽天的ではありませんでした。私は、これまでの自分の体験から、努力の継続には自信がいる、そして自信を維持するには根拠がいる、そう考えていました。
 自信とは、自分の適性に対する自信です。適性に自信が持てれば、あとは努力あるのみです。しかし、適性がなければ、どんなに頑張っても目標を達成できない。だから、当初の私の最大関心事は、そもそも私に司法試験合格の適性があるのかどうか…。この一点に注がれました。

 では、適性の有無の判断はどのようにして行ったか。
 当時の司法試験は7科目ありましたが、私はとりあえず1科目だけ勉強することにしました。1科目だけ勉強してみて、自分にも法律学を理解する頭があると確信できれば、あとはそれに7を乗じた努力をそればいいと考えました。そして、もうひとつ大事なことは競争相手の頭脳の調査です。司法試験は競争率3%なので明らかに競争試験です。だから、競争相手の頭脳の中身は気になります。
 なので、私は1科目だけ司法試験予備校で勉強することにしたのです。予備校に行ってみると、すごい大学の学生ばかりでした。初学者のクラスに入ったのですが、クラスメートは京大、阪大、神戸大、同志社大などの一流大学の法学部生ばかりでした。私だけ京都外大でどうみても場違いでした。

 でも、そのクラスで法律論の議論をしてみて発見したこと。それは彼らのような一流大学の法学部生と言えども、特別な頭脳の持ち主ではないということでした。私は、クラスの講師に質問を浴びせ、クラスメートに議論を挑みましたが、論争能力という点では普通の人たちに見えました。それもそのはず。日本の学校教育は、詰め込み教育、暗記中心の教育です。大学入試の試験科目もほとんどが暗記科目です。しかも、日本の大学入試に大いに問題がありました。法学部であろうと経済学部であろうと、受験科目は同じ。違うのは偏差値だけです。そもそも法律家に適性を持つ学生が合格できる仕組みになっていないわけです。
 そして、司法試験は暗記では合格できない。論争能力がないと合格できない試験だったわけです。その点私は、大学時代にディベートで徹底的に論争能力を磨いていました。だから、私の方がこの試験は有利に思えたのです。3%という競争率は、結局のところ抽象論。合格者数÷受験者数が競争力にすぎません。適性の有無は考慮に入っていないんですね。
 こうして、私は、「この試験、いける!」と確信できました。この確信が司法試験合格の根拠ある自信となり、6年間という努力の継続を支えてくれました。

3 リーダーシップ論

 このような私の体験がリーダーシップ論とどのように繋がるのか。
 個人の成功だけではなく、組織の成功にも可能性を信じることが重要です。特に、リーダーが組織の成功を信じることができなかったら、他のメンバーはこれを信頼してついていくことができないと思います。
 そして、リーダーの自信には、確固たる根拠が必要です。根拠のない自信は、些細な障害にぶつかっただけでも迷いが生じてしまいます。リーダーが迷えば、組織全体が迷います。
 だから、リーダーには、小さな成功体験の積み重ねによって培われた根拠のある自信が必要だと思っています。そして、それを個人の成功体験にとどめす、組織全体の成功体験として自信を共有することが重要になってくる…。それがリーダーの最大の責務だと思います。

 以上の話は、あくまでも私の個人的体験に基づくものであって、学問的根拠やデータの裏付けがあるわけではありません。
 しかし、体験談は、時には学問的な裏付けよりも説得力を持つ場合があると思っています。私の極めて個人的な体験談が何かの参考となりヒントとなれば望外の幸せです。

 このような講演をかれこれ5年やってきましたが、機会があればいつでも語りたいと思います。