埼玉県熊谷市で、ペルー人の男性A氏が、警察署での事情聴取中に逃走したということで話題になっています。A氏は、6人もの人の殺害に関与したと疑われていますが、現在民家の2階の窓から飛び降り、意識不明の重体だとのことです。
今回は、本件に即して、事情聴取中の対象者が警察署から逃げたことに対し、警察はどのように対処できたかについて検討します。
まず、前提として、「事情聴取」という言葉の意味についてさきに検討しておきましょう。これは、法的に定義の定まった言葉ではありません。
しかし、「取調べ」が特定の犯罪について、被疑者・被告人・参考人から事情を聴くものであるのに対し、「事情聴取」は、警察署で行われる職務質問のような意味合いで使用されているようです。
職務質問は、異常な挙動や周囲の状況から、何か犯罪について関与しているか知っていそうだと思われる人(対象者)を「その場に」停止させて質問するものです。
しかし、たとえば、その場の交通量が多くて危険であるとか、その場で質問を続けると周りの人にまるで犯人のような印象を植え付けてしまって対象者の名誉を傷つける等の事情が認められる場合には、警察官から対象者にお願いをして、近くの警察署等で質問を続けることができます。
これは「逮捕」とは違います。
逮捕は、特定の犯罪について犯人と思われる人の身体を、その人の意思に関係なく拘束するものです。相手の意思を無視してつかまえてしまうのですから、それなりの理由が必要で、逮捕状を示して行う令状逮捕が原則です(例外として現行犯逮捕と緊急逮捕がありますが、これらの要件はいずれもとても厳格です。)。
逮捕状は、その人が犯人であることを疑うに足りる相当な理由がそろっているという判断のもと、裁判官が発付するものです。
この「逮捕」のように、相手の意思を無視し、身体や財産等を制約して強制的に捜査目的を達する方法を「強制処分」、そうでないものを「任意処分」といいます。
強制処分には、基本的に裁判官らの出す令状が必要ですが、任意処分には令状は必要ありません。その代わり、任意処分は相手の意思を無視することができませんので、警察等の捜査機関が対象者からなにか情報を引き出したいと考えた時には、お願いしてやってもらうということが必要になります。
あらためて、本件の事情を見てみましょう。
今回、A氏は、逃走した際、逮捕されていませんでした。すると、なぜ警察署にいたのかというと、任意処分として滞在していた、すなわち警察としてはA氏に「お願いして警察署にいてもらっていた」ということになります。
A氏としては、お願いをされているだけですから、お願いをききたくなくなれば立ち去っていいわけです。むしろ、警察がA氏のいる個室に鍵をかけて立ち去れない状況を作ったり、A氏が立ち去りたいという意思を明確に表したにもかかわらず警察が無理にA氏を引き留め警察署に滞在させたりしていれば、今度は、「A氏の意思を無視していないか?」「いつの間にか、令状もないのに、逮捕のような強制処分をしたことになっていないか?」という問題が現れてきます。
A氏の逃走は、まさしく「立ち去りたい」という意思の明確な表れといっていいでしょう。
これを引き留める正当な理由が、当時の警察にはあったといえるでしょうか。
たとえば、警察署での事情聴取中、6人の殺害の件について話を向けた瞬間にA氏が逃走したため継続して話を聞く必要性が高まったとか、所持品の内容に殺人に用いたと明らかに認められる道具があったため今にも緊急逮捕をしようというところだった等、いくつか考えられますが、それでも、任意処分として滞在してもらっていた以上、警察として当時とり得た選択肢には限界があります。
A氏が逃走した当時、警察は何ができたかについては非常に難しい問題です。
いま私が報道から見聞きしている範囲の情報を基にすると、特に何ができたということもないように思われます。
なるべく早期にA氏の意識が回復し、事件に関する事実が少しでも明らかになるよう望みます。