ボクは、女房にも職場の同僚にも秘密にしていたんですけど、2年前に転移性肺がんの告知を受けたことがあります。

 造影CTで左右の肺に結節がいくつも見つかり、医師からは「転移性肺がんと見て、ほぼ間違いない」と言われました。余命宣告を希望するかと訊ねられたので、「希望します」と答えました。
 ただ、転移性の肺がんなので、原発性のがんを突き止めないと、余命も分からないし治療方針も決まりません。大腸がんなのか、肝臓がんなのか、組織型は何かで、予後も治療方法も違うからです。

 そこで、大腸の内視鏡検査、胃カメラ、腹部CT、PETと次々と検査をしたのですが、原発性のがんがどこにも見つかりませんでした。胸部CTも2ヶ月おきに撮りました。
 約1年に及ぶ精密検査と経過観察の結果、医師の説明は、「がんの可能性は極めて低い」という結論に変わりました。複数の専門医のカンファレンスでは、「あれは結局なんだったのか?」と首を傾げているそうです。

 ということで、お陰様で今は元気なんですけど、このときに初めて自分の死を意識するようになりました。また、自分の死に対して冷静になれたのも意外でした。交通事故や脳卒中でポックリ逝ってしまうよりも、がんで死ぬのも悪くない。家族のこととか仕事のこととか、死に向けて準備出来ますから…。そして、家族に看取られて畳の上で死ぬことも出来ます。

 女房に隠した理由は、当時、彼女がタイ留学の準備中だったため、この留学が取りやめになることを恐れたからでした。
 ボクの病気が原因で女房の夢を奪いたくないと思ったわけです。まあ、人間はいつか死ぬんだし、とりあえず女房をタイに送り出して、葬式の時に一時帰国してくれればいいや、と思いました。
 遺書も書き始めましたよ。女房には仕事のことで色々アドバイスしたいことがあったのですが、がん告知を受けていることを言えなかったので、こっそり書き始めたんです。ボクが死んだあとで読んでもらおうと思って…。
 でも、途中で挫折しました(笑)。だって、がんではないという話になっちゃいましたから…。
 ちなみに、女房は今もこのことを知りません。特に説明する機会もありませんので、このブログを読まなければずっと気づきませんよ(笑)。

 そんなこんなで、今回の出来事で、自分の死について色々考えさせられました。

ボクの死生観

①死を恐れる必要はない

 人は自分の死を体験できない。死の瞬間、それを体験する主体が存在しないからである。体験できるのは、全て他人の死だけである。だから、自分の死を過度に恐れる必要はない。

②死ぬから頑張れる

 死があるから、人は自分の人生を大事に出来る。永遠の生命があったら、あらゆる努力が無価値となる。

③やり残したことはあったほうがいい

 やり残したことがある状態で死を迎えた人は、充実した人生を過ごしてきた証拠である。もしやり残したことが何もなかったら、その人は惰性の人生を送っていたことになる。

 とまあ、こんなことを自分で考えていたわけです。今となっては笑い話ですけど…。

 そして、お陰様で何事もなく、女房は来月、無事にタイの大学院を卒業します。