そこで、まず歴史の教育はどのように行うべきか議論になったんですが、学校の歴史教育はあまりにもバカバカしいので話にならないことでは意見が一致しました。
では、歴史を我が子にどうのように教えるか?
「歴史に if はない」とよく言われますが、それは歴史学の話だと思います。
歴史学は、歴史的事実を追究する学問ですから、「もし~だったら…」と考えてはいけないのは当然です。
でもボクらは歴史学者になりたいわけではありません。「もし~だったら…」という仮定を置かなかったら、歴史から何も学べないし、歴史的事件の真相も深いレベルでは分かりません。だから、ボクは、歴史について考えるとき、常に「もし~だったら…」という仮定を置いて考えることにしています。
例えば、関ヶ原の合戦を通じて、我が子に歴史を学ばせるとしたら、どのように教えるか。基本的に金﨑家の歴史教育は、「考える歴史教育」です。
金﨑家の歴史の授業 -関ヶ原の合戦-
質問1
西軍の総大将だった毛利輝元が出陣していたら、戦さはどのような展開になったか。
質問2
小早川が西軍を裏切らなかったら、どのような展開になっていたか。
質問3
島津が動かなかったのはなぜか。もし島津が動いたら、勝敗に影響したか。
まず、質問1ですが、毛利輝元は、西軍の総大将だったにもかかわらず出陣していません。甥っ子の吉川広家を総大将代理として出陣させているというやる気のなさです。毛利家は大軍で出陣していたし、しかも家康の本陣の最も近くに布陣していました。しかし、毛利軍ひきいる吉川広家は動きませんでした…。
次に質問2ですが、小早川は事前に家康に内応していましたが、いざ合戦が始まるとなかなか裏切る決心ができませんでした。西軍優勢で家康がピンチでも西軍を攻撃しなかったんです。優柔不断な小早川が家康との約束を守らないという展開は十分ありえました。
最後に質問3の島津ですが、島津軍は少人数でこの合戦に参加していたのですが、出陣していたのは鬼島津で有名な島津義弘です。しかも、小早川のように小高い丘の上に布陣していたわけではなく、乱戦模様の真っ只中におりました。戦死しなかったのが不思議です。それなのに、島津も戦いませんでした。
このように、天下分け目の関ヶ原は、実に謎の多い合戦です。
この3つの質問について考えるだけで、頭のよい子になると思います。