昨日、神に関する哲学論争について書きました。

 うっかり忘れてましたが、そうするとサルトルについて書かざるを得ないことを思い出しました。

 サルトルの作品でボクが読んだのは、「存在と無」、「実存主義とは何か」、「嘔吐」の3冊です。最後の「嘔吐」は小説ですけど。

 ボクは昨日、創造主としての神は存在すると書きましたが、サルトルの実存主義哲学ってけっこう好きなんですね。自分の人生観に近い。でも、サルトルは無神論者なんです。

 サルトルは、「実存は本質に先行する」と言います。これが実存主義のエッセンスです。

 人間は、まず存在し、本質は後から作られる。例えてみれば、人間は白いキャンバスのような存在で、何者でもない。そこにどのような絵を描くかは自分次第。描かれる絵が本質なんです。

 しかし、この考え方が神の不存在証明につながっていきます。

 時計について考えてみましょう。時計の本質は「時を刻むこと」です。さて、時計の本質と時計の存在はどちらが先か。言うまでもなく本質が先です。時計の創造主である人間の頭の中で「時を刻む」という本質が決定され、その設計図に基づいて時計が作られる。

 ここから分かることは、創造主が存在する場合、「本質が実存に先行」してしまうということです。

 でも、人間の場合は、実存が本質に先行する。だから創造主(=神)はいない、となるのです。

 これはこれでけっこう魅力的でしょ…。

 皆さんどう考えます?アインシュタインのように考えるか、それともサルトルのように考えるか。