この肖像画は、若き日の徳川家康です。家康が32歳くらいの時だと思います。
戦国武将の肖像画にしては、あまりイケてないと思いませんか。
戦国武将というと、信長や秀吉のほうがはるかに人気がありますが、私はこの肖像画が描かれたエピソードを知って、家康の大ファンになりました。
この肖像画は、家康が武田信玄と戦った三方原の合戦で敗戦を喫した際に描かれたものです。
上洛しようとした武田軍に対し、家康は家臣の意見を退けて、籠城せずに野戦を挑みました。
家臣が家康に籠城を進言したのは、武田信玄に浜松城を攻撃する意図はないのではないかという読みがあったからだそうです。
信玄は、信長のような兵農分離政策を採っていませんでしたので、閉農期でないと戦さはできません。籠城している家康相手に浜松城で油を売っている暇はなかったと思います。
そして、家臣の予想通り、信玄は、浜松城を攻撃せずに西を目指しました。
プライドを傷つけられた家康は、城を出て信玄に野戦を挑んだのです。これが三方原の合戦です。
徳川軍は、信玄にあっけなく蹴散らされ、家康は九死に一生を得て浜松城に逃げ帰りました。
このときに、家康の重臣たちが何人も討ち取られています。他方で、武田軍は、名のある武将で討ち取られた者はひとりもいなかったとか…。そして、逃げ帰った家康は、信玄怖さのあまり、馬上で脱糞していたというエピソードまで残っています。
ところが、ここからが家康の器の大きいところです。
家康は、この惨めな姿を絵師に描かせ、一生の戒めにしました。上の肖像画はそのときのものです。
これはなかなかできないことです。信長でも秀吉でも、およそ権力者というものは、自分の汚点をできるだけ史実から抹消したがります。歴史に名を残す英雄でも、家康のようなことができる人は少ないと思います。しかも、わずか32歳にしてこの器量だから恐れ入ります。
この家康のエピソードに感動したボクは、司法試験で失敗したときに、オフクロにその惨めなツラの写真を撮ってもらったことがあります。よほど悔しかったのでしょうね。ボクには呼びつける絵師などおりませんので、代わりにオフクロを呼びつけて写真撮影したんです(笑)。
でも、一生の戒めにしようと思ったはずなのに、なくしてしまいました。無事、司法試験に合格して、「のど元過ぎれば何とやら」です。
まあ、ボクの器なんてそんな程度です。それでも家康は、ボクにとっては、これからも人生の目標です。
【記事公開日】2012年4月9日
ある戦国武将の肖像画
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