弁護士 金﨑 浩之 

 今日も大学院の講義です。

 今週は1週間の集中講義なんですね。なので、たぶん今週はブログもこんな調子で書くことになります。

 さて、今日の講義でおもしろかったのは、「安楽死」の問題でした。医療倫理のクラスなのですが、そのクラスでは安楽死の裁判例が紹介されておりました。

 ちなみに、講義を担当された先生は、医学研究科の客員准教授であるとともに、現役の弁護士さんでもありました。


 安楽死には、積極的安楽死と消極的安楽死があります。

 積極的安楽死とは、例えば、致死量の筋弛緩剤を投薬して患者を死に至らしめるように、患者を死なせるために積極的な行為に及んだ場合です。

 これに対して、消極的安楽死とは、例えば、人工呼吸器を取り外して、その結果、患者を死なせる場合のように、延命のための医療行為を中断することによって患者を死に至らしめるケースを言います。

 積極的安楽死に関しては、平成17年3月28日に出された有名な横浜地裁の判決がありまして、安楽死が許されるための4要件を判示しました。
 その4要件とは、

1、患者に耐え難い激しい肉体的苦痛が存在すること
2、患者にとって死が避けられず、かつ死期も間近に迫っていること
3、患者の肉体的苦痛を除去するための代替的方法が存在しないこと
4、患者の明示の意思表示(安楽死を希望する意思表示)があること

です。
 この要件を充たさないと、安楽死を行った医師には殺人罪が成立することになります。

 この4要件の全てを充たすのは難しく、事実上、積極的安楽死は認められないというように一般的には解釈されてきました。

 ところが、平成19年2月28日、東京高裁は、こちらは消極的安楽死のケースですが、安楽死を実施した医師に対して、懲役1年6月・執行猶予3年の判決を言い渡しましたが、安楽死の要件については裁判所が判断するのは不適切で、法律又はガイドラインで定めていく必要があると述べました。

 この東京高裁の判決のほうが、先の横浜地裁の判決よりも後であり、しかも上級審である高裁の判断であることから、横浜地裁の4要件は放棄されたに等しいという解釈をする弁護士さんもいるようで、実際に講義をされていた弁護士さんもそのような解釈論を述べていました。

 しかし、ボクはこの解釈には疑問です。

 厳格な要件が求められる積極的安楽死とは違って、消極的安楽死のケースでは、要件の緩和が社会的ニーズです。東京高裁は、このニーズに直面しながら、要件の定立に踏み込まないといけません。
 しかし、要件を緩和するということは、合法的な殺人行為に道を開くことになる。これは裁判所にとって重いテーマです。
 ひとたび安楽死の要件を緩めれば、安楽死がどんどん実施され、それこそ、滑りやすい坂道-slippery slopeーのように、安楽死の名の下に、合法的殺人行為が社会に広がってしまう…。

 こんなことを考え始めると、とてもじゃないが安楽死の要件緩和なんて、そんな思い切ったことを判断できっこない。かといって、厳格な要件を定めてしまうと、結局、安楽死を一切認めない方向になってしまう。

 まあ、これが東京高裁の本音でしょう。だから、判断することから逃げたんです。
 「こんな重いテーマ、オレたちに決めさせないでよ。君らが考えて決めてくれよ」と言いたいのです。

 だいたい、「法律又はガイドラインの策定」などということ自体、無責任で誤解を招く表現だと思います。
 国民を拘束する法律と、そうではないガイドラインを同列に並べているわけですから。

 この表現を真に受けて、「そっか、別に法律じゃなくてガイドラインでもいいのか。じゃ、ガイドラインで決めちゃえ」などと受け取ったら大変です。

 どんなに立派なガイドラインができあがっても、法的に直ちに有効となるはずはなく、当然、そのガイドラインの内容の”適法性”について、裁判所はしっかり吟味するはずです。
 その際、一定の限度でガイドライン策定者の裁量に配慮するかもしれませんが、事は”人命”に関わる重大事項ですから、広い裁量権を認めるはずがありません。

 そうすると、せっかく頑張ってガイドラインを作ったのに、いざ裁判となったら、やっぱり殺人罪が成立する、なんて事態になりかねません。

 いや~、東京高裁のこの判決は無責任ですよ。法律だけなら兎も角、ガイドラインに触れたのは余計でしたね。

 ということで、ボクは、この東京高裁は、裁判例としてあまり重視しないほうがよいのではないか、と思います。
 ましてや、先に出された横浜地裁の考え方を放棄した趣旨と解釈するのは、あまりにも深読みです。