ボクが小学生の頃、クラスで村八分といういじめが流行ったことがあります。

 村八分を仕切っている”いじめっ子”のリーダが、クラスメートの誰かを村八分にする。
 飽きたら村八分から解放して、別のクラスメートを村八分にする…。飽きたらまた別の人…という具合に。

 驚いたことに、最初に村八分のターゲットにされたのは、クラスで一番けんかが強かった番長でした。
 いじめを仕切っているリーダーが誰かは自明でした。
 村八分にされた男が一番けんかが強いのだから、そのリーダーをシメてやればいい…。
 ところが、です。その番長は、村八分から解放されるまで最後まで無抵抗でした。

 このときに、少年の世界に腕力よりも強い力があることを知りました。



 番長の次に村八分にされたのは、偶然にもボクの近所の友だちで昔からよく遊んだヤツでした。

 村八分には、言うまでもなく、”協調性”が求められます。協調性がないと一人のクラスメートをみんなで”無視”できないからです。
 ところが、ボクは、その二番目に村八分にされた友人に休み時間に話しかけたり、遊んでやったりしました。村八分のルール違反です。
 当然、いじめのリーダーからボクに警告がきました。

 「そんなことしていると、次はオマエだぞ!」

 でも、ボクはその警告を無視して、村八分にされているヤツと遊び続けました。
 そうしたら、ボクが本当に次の村八分にされてしまいました(笑)。


 なぜ、こんなリスクを冒してまで、いじめられていた友だちと遊んでやったのか…。

 友情ではありません。そんなことで友だちを助けるほど、ボクの心は美しくはできていない。



 自己顕示欲です。

 誰も抵抗できずに屈服した”村八分”に対して、ボクだけが屈服しない、そうすることによって、クラス中のみんなに、ボクが”ほかの連中とは違う器”であることを証明するためです。

 自己顕示欲なのだから、村八分にされていることはむしろ快感でした。

 今思い起こすと、ボクは相当屈折した少年だったと思います(笑)。

 たぶん、当時のクラスメートはボクの行動を美化していると思います。しかし、少年といえども、表面的には美しい友情に見える行動の裏には、こんな心理が隠れていたりするものです。

 ちなみに、そのいじめのリーダーですが、彼は転校生だったんです。確か、彼が転校してきたとき、みんなでからかっていじめた記憶があります。

 もしかすると、そいつにとって村八分を仕切るということは、自分の身を守る最善の方法だったのかもしれません…。