1 マキャベリの「君主論」
私がピーター・F・ドラッカーの著作の愛読者であることはこのブログでも触れてきましたし、何度かブログで取り上げました。
ところで、ドラッカーの著作のほかに愛読書になっている本があります。大学生の時にこの本と出会い、以後、私の愛読書となっております。
それは、マキャベリの「君主論」です。
マキャベリは、15世紀から16世紀にかけて中世イタリアで活躍した人です。そして、彼の著作である君主論は、君主のあるべき姿について論じたものであって、直接には、企業経営について論じたものではありません。
しかし、その内容を見ると、企業経営に携わる「経営者」、特にトップ・マネジメントに携わる人にとっては学ぶべきことが多く語られております。
マキャベリが論ずる「君主」が国家と国民に対して大きな責任を負っているのと同様に、「経営者」も社会・顧客・従業員に対して大きな責任を負っています。レベルの違いはあるものの、リーダーとして大きな責任を負っているという点で共通することが多いのでしょう。特に、私の印象では、マキャベリが論じている君主と国民の関係は、経営者と従業員の関係に酷似しているように思えました。
そして、このことを痛感するようになったのは、私が法律事務所を「経営」するようになってからです。
2 君主にとっての「良き気質」
マキャベリは、君主が「良き気質」を備えるべきか否かについて君主論の中で論じています。
ここでマキャベリが取り上げている「気質」とは、才能とか能力のことではなく、「人間性」です。「人格」と表現しても良いかもしれません。
すなわち、信義に厚く人情があり国民から愛されているのは「良い気質」です。
このことを前提として、マキャベリの見解を引用してみましょう。
「君主は、…略…いろいろなよい気質をなにもかもそなえている必要はない。…略…。いや大胆にこう言っておこう。そうしたりっぱな気質をそなえていて、つねに尊重しているというのは有害であり、そなえているように思わせること、それが有益である」(「世界の名著 マキャベリ」池田廉訳・中央公論社)。
「そなえているように思わせることが有益」としている点はしたたかで恐れ入りますが、特筆すべきなのは、「立派な気質を備えていることが有害」だとしている点です。
この内容を素直に解釈すれば、君主がいわゆる「人格者」であることは有害であると論じていることになります。
これが正しければ、けっこうショックだと思いませんか?
2 経営者は人格者であるべきか
もし人格優れた経営者に従業員が惚れ込み、組織の構成員が一丸となって仕事に励む、そんな会社があったら理想的ですよね。
もしもそんな会社があったら、私も法律事務所経営なんてすぐにやめて、その会社に就職したいと思います(笑)。ただし、その会社が経営不振に直面していなければの話ですが…。会社と心中したくはありませんからね。
でも、私の知る限り、有能な経営者、つまり、会社としてのしっかりとした理念を持ち、着実に収益を挙げて会社を成長に導いている、そんな経営者は、お世辞にも人格者とはほど遠い人が多いです。
特に従業員との関係ではそうです。
家庭を犠牲にしてでも仕事を優先させる。能力のない従業員や仕事をさぼる従業員を見つけたら容赦なく厳罰を加える。ここまではまだ理解できます。問題はその先です。経営不振の兆しが見えたら、従業員の責任ではないのに、容赦なく切り捨てる…。
リーダーになるということは、ある意味、悪魔に魂を売る覚悟を持つことを意味するかのようです。
私自身の経験でも、経営者は、職員に好かれることよりも、職員から不満が出るような意思決定を余儀なくされる局面のほうが多いと思いますね。
そりゃ、私だって、できれば職員が喜ぶような意思決定をしたいもんですよ。人間、誰だって他人から好かれたいですからね。でも、それじゃ、間違いなく経営なんてできないでしょうね。
企業経営者にも、国家の君主と同様に、組織全体を救うために冷徹な決断を迫られることが少なくないと思います。そんなプレッシャーに耐えられないと、経営者は務まらないのかも知れませんね。