前々回:デッドコピー規制①
前回:デッドコピー規制②

 「芸術は模倣から始まる」とよく聞きますが、一体誰が言い出した言葉なのでしょう。割と近年では、故・池田満寿夫氏が著書の中で、「すべての創造は模倣から出発する」と書いたようです。同氏に関しては、書き始めるとチチョリーナさんまで話が飛んでいきそう(注:彼の小説『エーゲ海に捧ぐ』が映画化された際に主演を務めたのが、かのチチョリーナさんでした)なのですが、とりあえず今日はポロリではなく「模倣」の話です。

 さて、この「模倣」という不正競争法2条1項3号の要件なのですが、二つの要素に分けることができます。すなわち、①主観的要件としての模倣の意図、②客観的要件としての形態の同一性、この2つの要素ですね。

 ①についてですが、人間の想像力には限界があります。したがって、「いいアイデアを思いついた!」と自分では思っていたとしても、すでに他の人が先に思いついていたということが多々あります。この間、私は急に<「大奥」ならぬ「犬奥」というタイトルでメス犬ばかり登場する映画を作れば少なくとも犬好きには大当たりだろう>と思いつき、一人ニヤニヤしておりました。しかし、試しに「犬奥」でネット検索すると、すでにそのようなタイトル・内容の動画がユーチューブにアップされていたのでした。

 と、真似をする気はなくても、気が付いたら似ていたということはよくあります。そのような偶然の場合にまで法の網を被せるのは可哀そうですので、どうしても①の要件が必要になってきます。

 なお、模倣の意図とは、「当該他人の商品形態を知り、これと形態が同一であるか実質的に同一といえる程に酷似した形態の商品と客観的に評価される形態の商品を作り出すことを認識していること」であると言われています(東京地裁平成8年12月25日判決など)。

 とはいっても、客観的な同一性が立証されれば、模倣の意図は事実上推定されるとの考え方が有力的です。そうであれば、「模倣」されたと主張する側が客観的同一性(すなわち上記②の点)を立証したなら、今度は「模倣」したとされる側で模倣の意図がなかったことを立証しなくてはならなくなりますが、結構難しそうです。「ないこと」の証明というのは悪魔の証明と言われ、そもそも困難なものですしね。どうやって「模倣の意図がなかったこと」を立証するのか自分なりに考えてみましたが、「模倣」されたとされる商品があまり全国的に流通していないマイナーな商品であることを主張・立証する位しか思いつきませんでした。

 次に、②客観的側面としての形態の同一性についてですが、これは学者の中でかなり見解が分かれます。先に挙げた判例などは、「他人の商品と作り出された商品を対比して観察した場合に、形態が同一であるか実質的に同一といえる程に酷似していること」などと厳格な定義を用いているようです。その一方で、かなり同一性について緩やかに解する見解もあるようで、実際に商品の重要な特徴であり、需要者の目をひきつける印象の強い部分を重視して判断する可能性を示唆する判例もあります(大阪地裁平成10年9月10日判例)。

 いずれにせよ、完全なデッドコピーだけではなく、「ほんのちょっと違う」みたいな商品は排除されるべきでしょう。この辺りの判例の基準ですが、「相違がわずかな改変に基づくものであって、酷似しているものと評価できるような場合には、実質的に同一の形態であるというべきであるが、当該改変の着想の難易、改変の内容・程度、改変による形態的効果等を総合的に判断して、当該改変によって相応の形態上の特徴がもたらされ、既に存在する他人の商品の形態と酷似しているものと評価できないような場合には、実質的に同一の形態とはいえない」とされます(先の平成8年の判例の控訴審である東京高裁平成10年2月26日判決)。

 「総合的に判断して」は裁判所お得意のフレーズです。これは、基準があるのかないのかよく分からないことになる魔法の呪文です(笑)。呪文のため、結局どのくらい違えば同一性が失われるのかという判断は非常にあいまいで、裁判官の気分次第ということになります(少し言いすぎですが)。

 ちなみに、同一性の判断基準は、同業者であって、一般の需要者ではないとされています。また、判断方法は、両方の商品を目の前に並べて対比観察、それも全体を観察すべきとされており、意匠権の場合のように「要部観察」をすべきではないとされているようです。

 ということで、デッドコピー規制についてのシリーズは今回で終わりです。また次回から別の知財のお話を書こうと思いますのでよろしくお願いします。

弁護士 太田香清