不動産の賃貸借契約を、賃貸借契約の期間中に、賃貸人の都合で解除する場合には、賃貸人と賃借人の間に「信頼関係の破壊」に至る程度の事由が必要であるとの見解が、我が国の判例法上定説とされています。すなわち、何らかの理由で賃貸人が賃借人を立ち退かせたい、出ていってほしいとして賃貸人が賃貸借契約を解除した場合には、「信頼関係破壊といえる程度の落ち度がない」ことを賃借人が立証した場合には、賃貸人側の都合だけでは立ち退かせられないということです。
では、具体的にはどのような事情が「信頼関係破壊」とされるのでしょうか。近時の具体的な裁判例に照らして概観してみたいと思います。
今回は、特に、賃貸人による建物の明渡請求が棄却された事例について、いくつか検討することとします。
1 賃借人が、賃貸人に対する事前の通知なしに修繕工事を行った場合
このような場合の一例として、東京地方裁判所平成21年4月9日判決があります。この判決の事例では、賃借建物(以下「本件建物」という)について,被告が行った修繕工事は大規模修繕工事に当たらず,同工事について,事前の通知を欠いたとしても原被告間の信頼関係を破壊するものとはいえないなどとして,賃貸人が行った建物明渡等請求などが棄却されました。(この判決の事例の場合の賃貸借契約には、「賃借人が本件建物について“大規模工事”を行う場合には、賃貸人に対する事前の通知をすることが必要である」との趣旨が定められていたため、賃借人の行った工事が「大規模工事」にあたるものかという形で争われたものです)
判決の理由としては、賃借人が行った修繕工事は、本件建物(この判決の事例の場合、老人ホームの建物について問題となっていました)の価値を上げるものであって下げるものではないこと、本件建物に相当と考えられる額の賃料が支払われていること、などが重視されたようです。
2 賃借人が、賃貸人に対して保証金を入れていた場合
このような場合の一例として、東京地方裁判所平成20年3月4日判決が挙げられます。
この判決の事案では、賃借人は賃借人に対して支払うべき賃料を滞納していたという実態があるものの、その滞納賃料は、賃借人が賃貸人に対して差し入れていた保証金と相殺できるから、建物賃貸借契約の解除事由にはあたらないものとして、賃貸人からの建物明渡請求を棄却しました(上記の相殺後の滞納賃料債権の請求は認容)。
本判決では、賃貸借契約の当初と賃貸人が交代していた事案ですが、判決は、前の賃貸人と後の賃貸人(本件の被告)との間で保証金返還債務について「免責的債務引受け」がなされたと認定し、直接には保証金の差し入れを受けていない本件被告が前の賃貸人に替わって保証金返還債務を負う、と判示したところにも注目されます。
つまり、本件の被告が仮に前賃貸人との間で、保証金返還債務の分を建物売買代金に反映していなかったとすれば、本件の被告は保証金の分だけ損害を被ってしまう、ということです。建物明け渡しとはまた別の場面とはなりますが、賃借人付きの不動産を売買する際に、保証金返還債務の分の精算についても忘れないようにしたいものです。
3 以上のとおり、賃貸借契約を賃貸人の側から解除するに足るだけの「信頼関係破壊」があるか否かは、場合によっては微妙な判断になることもあります。
賃貸借契約を開始する当初から「賃貸借契約書」を取り交わし、その中に解除事由を明記しておくということは、たいていの場合になされていることとは思いますが、必ずしも契約に明記していない事項が後日紛争の種となることも、あることでしょう。
特に賃貸借契約に明記されていない事情により「信頼関係が破壊された」として賃貸借契約を解除する場合には、当方は信頼関係の維持に可能な限り努力を尽くしたこと、落ち度は一方的に相手方のみにあることを、交渉記録などを通じて明確にしておくことが望ましいでしょう。