1 肺癌の見落としで5年生存率低下

この事件は、患者に対して何か具体的な損害が発生したわけではないのに、「5年生存率」が低下したこと自体で慰謝料を認めたという点で、とてもユニークな事例です(東京地裁平成18年4月26日判決)。

 よくある健康診断での肺癌の見落としなんですが、見落としてしまった最初の胸部X線写真では、ステージⅠでしたが、癌が見つかった胸部CTでは、すでに最初の健康診断から11ヶ月が経過しており、ステージⅡbに進行していました。すでにリンパ節への転移もありました。組織学的には、低分化型[1]の肺腺癌[2]だということも判明しました。

 実は、医療の現場では過去の臨床データの積み重ねで、5年生存率というのは統計的に分析されているので、癌の見落としでどの程度進行したかが分かれば、5年生存率の低下自体は容易に算定できます。
 例えば、この事案ですと、2003年度版(事件当時)の肺癌診療ガイドラインによると、最初の健康診断時の臨床ステージはⅠa期に該当し5年生存率は約72%、これに対し、手術時の進行度合いは、Ⅱb期で5年生存率は約42%でした。
 そうすると、発見の遅れで低下した5年生存率は、72-42=30%となります。

2 判例のポイント

 この判例のポイントを整理すると、次の3点です。

 第1に、この5年生存率の低下自体を損害と認め、慰謝料の対象とした点です。

 そもそも、5年生存率とは、過去の膨大な臨床データに基づいて算出された統計分析であって、当該患者自身に何が起こるのかは分からない、その意味では一般論の域を出ていません。5年生存率が下がっても、この患者さん自身は、10年後も20年後も生き続けるかもしれないのです。
 したがって、5年生存率の低下自体を損害として捉えたのは大変画期的です。
 余談ですが、この事件自体(癌の見落とし)は平成14年9月頃で、判決は平成18年4月なので、約4年近く経っているわけですが、判決の時点で癌の再発はなかったそうです。5年以内に再発がなければ、その後に再発する可能性は極めて低いそうです。

 第2に、この5年生存率の低下に対して、慰謝料400万円という比較的高額な評価をした点です。

 これを低いと見るか高いと見るかは意見の分かれるところかもしれませんが、交通事故などの相場観からすると、5年生存率の低下という抽象的損害だけで、400万円はかなり高い評価額だと思います。しかも、裁判所は、医師が癌の見落としについて謝罪した点を考慮していると判示しているので、もし謝罪していなかったらもっと高額になると言わんばかりです。

 第3に、裁判所は、癌が再発して患者が死亡したような場合には、あらためて医師に別途賠償義務が生じる可能性があることにも言及しました。要するに、この400万円という慰謝料は、あくまでも5年生存率の低下自体による慰謝料であって、これで終わりということではないですよ、と念を押しているんです。

3 若干の補足

 3つのポイントとの関係で、何点か補足しておきます。

 まず第1に、裁判所が5年生存率の低下で慰謝料を認めたわけですが、これは慰謝料に限られるという趣旨ではありません。本件では、発見が遅れたことにより、労働能力の低下であるとか治療方法が変わり、より多くの治療費を要するようになったわけではないとして、経済的損害はないとしたのです。

 第2に、400万円の損害額も5年生存率が30%低下したから400万円の慰謝料が相当だとしているわけではない点です。したがって、低下率で金額が大きく変わってくるのかは判然としません。

 第3に、将来癌が再発した場合の別途損害賠償義務が生じる可能性ですが、この点も考慮すると、400万円の慰謝料は高すぎるという指摘もあります。

 しかし、仮に癌が再発して、この患者さんが死亡したような場合、既に400万円の慰謝料を支払っていることは、死亡時の慰謝料算定で十分考慮されるはずですから、二重払いにはならないと私は考えます。

[1] 低分化の意味について、分かりやすい血液の細胞の例で解説します。
血液の細胞に、例えば、赤血球、白血球、血小板などがあることは皆さんもご存じだと思いますが、これらは、元々は「造血幹細胞」という同じ細胞からできます。この時の造血幹細胞を未分化細胞といい、赤血球や白血球などに発展したものを高分化細胞といいます。
癌という病気は、この細胞が未分化の段階でも高分化のレベルでも生じるんです。未分化細胞が癌になれば「未分化癌」、高分化細胞が癌化すれば「高分化癌」です。低分化癌とは、未分化ではないが高分化でもない、十分分化する前の細胞が癌化したということでしょう。

[2]  肺癌にもいろいろ種類があり、代表的には小細胞癌、大細胞癌、腺癌、扁平上皮癌などがあります。ところで、最も悪性度が高いのは小細胞癌で、そのため臨床的には小細胞癌と非小細胞癌という分け方をすることもあります。
ちなみに、喫煙と関係が深いと言われているのは小細胞癌と扁平上皮癌で、腺癌との関係は明らかになっていないそうです。