第1 想定される過失

① 医師が、肺血栓塞栓症の予防措置を怠った過失
② 医師が、肺血栓塞栓症に対する処置を誤った過失

 肺血栓塞栓症に関する医療過誤訴訟は多い。  「肺血栓塞栓症および深部静脈血栓症の診断、治療、予防に関するガイドライン」(以下、「ガイドライン」と言う。)がとても参考になる。

①の過失について

 肺血栓塞栓症については、

 肺血栓塞栓症の既往、手術後、下肢麻痺、ギプスによる下肢固定、高齢、長期臥床、呼吸不全、癌化学療法、肥満、下肢静脈瘤

 などが危険因子とされている。
 これらの因子を有する場合、医師は、肺血栓塞栓症の予防措置を考える必要がある。
 予防措置としては、早期及び積極的な運動、弾性ストッキング、間欠的空気圧迫法、ヘパリン、ワルファリンなどが一般的である。

②の過失について

 肺血栓塞栓症に対する処置には、抗凝固療法、血栓溶解療法、カテーテル的治療等がある。
 肺血栓塞栓症は、死亡率が高く、迅速・的確な処置が要求される。

 主張される過失の主なものは、上記①、②の2つ。
 医療過誤訴訟自体、原告勝訴事案は多くはないが、肺血栓塞栓症に関してはその中でも、原告勝訴事案は少ない。

 以下、原告敗訴事案9つを紹介する。

第2 高松地裁平成22年3月29日

 平成12年3月24日、患者が右変形性股関節症の治療のため、被告病院で右骨盤骨切り術を受け、入院していたところ、同年4月4日、呼吸停止となり、同月6日、肺血栓塞栓症で死亡した事案。

 「股関節の手術後」、「長期臥床」という危険因子ありとして、①の過失を主張。

 予防法として、早期及び積極的な運動、弾性ストッキング、間欠的空気圧迫法、ヘパリン、ワルファリンなどを行うべきであったと主張。

 必要な検査を行う義務違反、適切な治療義務違反として②の過失を主張。

 ガイドラインが証拠として提出されている。平成16年のガイドライン策定の前後、平成20年のガイドラインの改訂の前後で、医療水準は変化すると思われる。

「日本血栓止血学会,肺血栓塞栓症研究会が中心となった肺血栓塞栓症/深部静脈血栓症(静脈血栓塞栓症)予防ガイドライン作成委員会は,平成16年2月,同ガイドラインのダイジェスト版(甲8)を作成し,同年4月,同ガイドライン(乙18)を定めた。しかし,現存する日本人に関するデータは未だランダム化された試験がほとんどなく,データの信頼性も自ずと低いものとなるため,同ガイドラインは,十分なエビデンスに基づいたものではなく,静脈血栓塞栓症の予防を考慮する際の一つの指針に過ぎないことを十分念頭に置く必要がある。そして,ある程度一定のガイドラインを多くの施設で使用し,そのデータを集積することでエビデンスとし,見直しながらわが国独自のガイドラインを作成していくことがもっとも有効なガイドラインの作成法であると考えられた(乙25)。その後,平成20年10月,同ガイドラインは改訂された(甲27の1ないし10)。
以下の認定は,別に証拠を掲記しない限り,改訂後のガイドラインによる。」

「股関節の手術を受けて一定期間横臥しているAについて,下肢深部静脈血栓ひいては肺梗塞に至る一般的・抽象的な予見義務があり,かつ,下肢深部静脈血栓により肺梗塞が起きる一般的・抽象的な可能性を認識していたのは前提事実(3)のとおりであるが,本件事故当時,深部静脈血栓症発症の予防のために,運動量の確保,水分の補給,弾性ストッキングの着用,間欠的下肢空気加圧法の実施,静脈フィルターの留置,ヘパリン等の投与という予防義務を履行することが医療水準として法的義務となっていたとは認められず,被告には予防義務違反はなかった」

 本件医療事故が平成12年に起きているのに対し、ガイドラインは平成16年に策定されている。本件事故当時については、ガイドサインの記載内容は医療水準とは認められないとして、患者側に厳しい判断をしている。逆に言えば、平成16年以降の医療事故であれば、違った判断がなされた可能性はある。なお、判決によると、別団体によって平成14年策定に策定された別のガイドラインもあるようだが、平成16年のガイドラインと比べると、危険因子に該当するためのハードルが高いようである。)

「肺血栓塞栓症の最も多い自覚症状として挙げられる呼吸困難や胸痛,失神を訴えることはなく,被告は,この時点で肺血栓症を起こしていた可能性が高いとして直ちに対処して適切に治療すべき義務があったとは認められない。」

 ②の過失も否定。逆に言えば、「呼吸困難や胸痛、失神」を訴えていたにも関わらず、肺血栓塞栓症を見落とした場合は、過失を認定する方向に働く。「胸痛」を訴えていたかどうかを問題にしている裁判例は他にもあり、「胸痛の有無」は肺血栓塞栓症の診断の見落としについては重要なチェックポイントの1つと言える。