1 はじめに

 医療崩壊という言葉を聞いたことのある人は多いでしょう。その原因の一端が、医療訴訟の増加にあると考える方も、残念ながら少なくありません。

 確かに、医療に従事する方たちの過重労働は想像を絶するものがあり、特に研修医の方々の労働時間を聞くと、恐ろしいものがあります。中でも、訴訟リスクが高く、加えて慢性的な専門医の不足から労働時間が長くなりがちな産科は、医学部生から敬遠され、過重労働にも関わらず適正な増員が果たされていません。その結果、現役産科医の労働環境が更に悪化し、疲弊し集中力を欠いた状態で診療をした結果、医療過誤が生じることも理解できなくはないです。その帰結として、医療訴訟は増加し、更なる訴訟リスクから医学部生が産科を敬遠し、現役産科医の負担が増大するという負のスパイライルが形成されています。

2 大野病院事件

 この点、福島地裁で平成20年8月20日に出された判決がとても参考になります。これは、通常の(金銭的な)損害賠償を請求する民事訴訟ではなく、担当した医師の刑事責任を追及した刑事訴訟である点に特殊性があります。刑事訴訟の特徴は、被告人こそ担当医ですが(ただし、民事訴訟の場合、医師は「被告人」ではなく、「被告」ですが)、相手方は被害者や遺族ではなく、検察官であることです。

 民事訴訟であれば、被害者(またはその遺族)は、勝ち負けは別として、自由に相手方の医師を訴えることが出来ます。これに対し、刑事訴訟では、担当医師を起訴するかどうかを決定するのは検察官であり、被害者が担当医を起訴することは出来ません(もちろん、遺族の意思が起訴・不起訴の決定に事実上の影響を与えることはありますが、被害者が起訴の権利を持っているわけではないのです。)

 この事案は、「大野病院事件」と呼ばれており、福島県立大野病院で帝王切開手術を受けた妊婦が死亡し、そのことで、執刀医の医師が業務上過失致死と医師法違反として逮捕・起訴されたというものです。

 具体的には、産婦人科医師である被告人が、胎盤の用手剥離開始後に、癒着胎盤であることが判明して用手剥離が困難となったが、クーパーを用いてそのまま剥離を継続したため、患者が大量出血による出血性ショックで止血した、との事案なのですが、最善の処置を施していれば、救命することが不可能とまでは言えない事案でもあったようです。

3 判決

 当該事案の判決では、

「臨床に携わっている医師に医療措置上の行為義務を負わせ、その義務に違反した者には刑罰を科す基準となり得る医学的準則は、当該科目の臨床に携わる医師が、当該場面に直面した場合に、ほとんどの者がその基準に従った医療措置を講じているといえる程度の、一般性あるいは通有性を具備したものでなければならない」

 との判断基準が示されました。

 人間の能力に限界がある以上、全ての治療法・対処法を知り、全くのミスなく手術を完遂させることは人間の能力の限界を超えています。そういった意味で、当該判決に肯定的な専門家は多いです。

 判決は、被告人が癒着胎盤を認識した時点で、直ちに剥離を中止して子宮摘出手術等に移行すべきことが当時の医学的準則であったとは認められない等として、被告人の過失を否定しています。しかしながら、これは医師の行為が、「刑法上の過失」と評価されるものではないとのことを示した事案に過ぎません。

 そして、「刑事上の過失」と「民事上の過失」は似ているようで全く異なる概念です。

4 まとめ

 確かに、訴訟リスクを恐れる医師が、産科などの特定の診療科を敬遠する気持ちは分からなくはないです。しかし当然のことながら、訴えることが権利であることも紛れもない事実です。刑事上の責任を追及することの意味と、民事上の責任を追及することの意味も、似ているようで全く違います。

 被害者や遺族の方には、真相解明のために民事訴訟を提起したい方も多いでしょう。弁護士に依頼し、証拠収集・示談交渉を行い、訴訟提起の準備をするだけでも真相に近づくことは可能です。

 もちろん、不当な訴訟は控えるべきですが、医療崩壊はそもそも医師の増加や適正配置などを通じ、国が解決すべき問題です。(治療自体に問題はなくとも、)医師の事後の対応に問題のある事例は、現在の閉鎖的な医療業界を鑑みると、多いと言わざるを得ないでしょう。

 そういった意味で患者としても、医師の対応に疑問を感じた場合、過度に遠慮をするようなことはせず、場合によっては法的手続きを検討すべきと言えるでしょう。