1 事案の概要

 この事件は、当時32歳の女性が第二子を帝王切開によって出産したところ、腹腔内出血により死亡したというもので、裁判所は、医師が患者の腹腔内出血の発見と治療の遅れを過失と認定して、医師に賠償を命じた判例です(東京地裁平成18年7月26日判決)。

 手術は、平成15年10月4日に行われました。
 帝王切開手術自体は上手くいき、胎児も無事に娩出され、手術は18時18分に終了。ところが、母親のバイタルサインはどんどん悪化していきました。
 手術室から退出した時点では、収縮期血圧が111、拡張期が56、心拍数は132。

 しかし、同日の19時15分頃には、収縮期血圧が98、拡張期血圧が58まで下がり、心拍数も132となり明らかな頻脈となっています。手術終了からわずか1時間足らずです。

 その後、容態はさらに悪化し、19時45分頃には、収縮期血圧は76、拡張期血圧が49にまで下がります。収縮期血圧が90を下回ると、多くの場合、ショック症状に陥ります。この患者さんの場合、76まで下がっているのでかなり危険な状態だったと思います。心拍数も144まで増えています。心拍数は100回/分を越えたあたりから頻脈の領域に入りますので、けっこう頻脈ですよね。

 血圧を決める要因は、循環血液量(前負荷)、心収縮力、末梢血管抵抗(後負荷)です。
 大量出血があると、循環血液量が大幅に減少するので、血圧が下がります。このとき、生体の代償機構が働いて正常な血圧を維持するために、間質液が血管内に移動してくるのですが、出血が多いと追いつきません。また、心臓も代償機能を持ち、正常な血圧を維持しようと頑張る、つまり、激しく収縮しようと努力するため頻脈になるわけですが、これも出血が多いと正常な血圧を維持できない…。
 このあたりの所見からかなりの出血を来している可能性を読み取れたと言えそうです。

 さらに、この患者さんでは乏尿も認めらました。
 腎臓がちゃんと機能するためには、腎臓に血液が送られて酸素が供給されなけばなりません。
 しかし、循環器の機能が十分に働かなくなると、他の重要な臓器への血流を優先して、腎臓への血流が不足するそうです。
 その結果、乏尿または無尿になります。
 このような所見からも出血を疑うことは可能でした。

2 医療事故は交通事故よりも慰謝料増額

 この判例で重要な点は、過失論や因果関係論それ自体ではなく、裁判所が医療過誤において交通事故の事案よりも慰謝料が増額されると明示した点です。

 損害賠償論は、交通事故の分野で発達してきました。治療費などの実費は別として、慰謝料、逸失利益、過失相殺などは、難しい判断になります。例えば、被害者が交通事故で死亡した場合、遺族の精神的ショックは金銭で見積もるといくらなのか、これを理論的に決めることは不可能です。逸失利益についても、仮に死ななかったら将来いくら稼いだのかなんて誰にも分かりません。過失相殺も同様、双方に過失があるからといって、なぜ7対3なのか、なぜ6対4じゃだめなのか、これを理論的に説明することはできないと思います。

 しかし、だからといって、個々の裁判官の裁量に任せていたら、裁判自体が適当になってしまいます。法的責任を追及する制度なのに、まるでくじ引きみたいに、厳しい裁判官か甘い裁判官かで結論が大きく変わってしまいます。これではまずいということで、交通事故の分野では、損害賠償額の決め方について、かなり詳細に定型化、類型化されていきたわけです。

 ところが、医療過誤訴訟について、独自の損害額算定基準が構築されているわけではありません。そこで、医療事件を手がける弁護士は、交通事故の損害賠償算定基準を参考にして、損害額を算出しているというのが実態です。

 交通事故の算定基準だと、配偶者の死亡に伴う慰謝料額は、現在のところ2400万円とされています。裁判所は、これに300万円増額し、2700万円としました(ちなみに、これは慰謝料の話で、逸失利益等を含めた賠償額の総額は約7300万円認容されています)。

 裁判所は、その増額理由として、次のように指摘しています。

・医療事件においては、交通事故などの場合と異なり、医療に対する患者の信頼を裏切ったという背信的要素が存在する。

・医師は専門職として高度の注意義務を負っており、…(中略)…通常人の場合に比してより高度の非難が妥当しうる。

 この裁判例はあくまでも下級審の判例に過ぎませんが、おそらく他の地裁や、そして高裁、最高裁も異論の余地を挟まずに追随するのではないでしょうか。

 医療事件では交通事故よりも慰謝料増額…。これは、医療事件を手がける弁護士としては癖にしておかなければなりませんね。